最愛であるもの

今日21日は、7年前に亡くなった猫のアヤの命日である。
ルナとアヤは、子猫の時から僕が育てていた。
家に来たのも1か月違いで先にルナが来ていた。
オスとメスで兄弟のようにじゃれあって一緒に住んでいた。

だが僕はルナの方をかわいがり、あまりアヤをかわいがらなくなった。
居候していた叔母の家に預けっぱなしで、ルナはとてもかわいがっていたのに。

叔母の家を建て直すときも、僕はルナだけを連れて建て直しが終わるまでの間部屋を借りた。
その語、引っ越してきたが、相変わらずあまりアヤをかわいがらなかった。

当時、前会社でペットグッズショップをOPENするとのことで、僕はその店を手伝い家に帰るのも遅い日が続いていた。
ある日帰ったら、アヤがぐったりしていた。
次の日も朝早くから仕事があり、向かったのだが、嫌な予感がして昼過ぎに僕は家に帰った。

家に着いたら、息も絶え絶えのアヤがいた。
僕はすぐに病院に連れて行ったが連れて行くのが遅く助からないとの診断で、僕は最後は家でと思いそのまま連れて帰った。
家に着き、しばらくして僕の目の前でアヤは亡くなった。

僕はとても耐えられなくなりアヤに懺悔をしたのだ。
本当にすまなかったともう謝っても謝っても遅すぎるのに。

アヤの遺骨は、今でも僕の家に置いてある。
昨年、ルナが亡くなり、遺骨は2つとなっている。
僕はこの想いが浄化されるまで、このまま傍に置いておくことにしている。

死んでから可愛がるのなら、生きているときに。
僕はアヤが亡くなった時、とても後悔してそう誓ったのである。

だからそのあと、ルナは僕の命より尊く、この世のすべての中で一番大切にしたのである。
今でも後悔はしている。
だから命日は忘れない。

最愛であるものは、僕のそばにいつでもいるのだ。
僕はもう二度と猫は飼わない。
いつか僕が死んだときに、ルナとアヤが僕を待っていてくれると信じているから。

その時に、ルナとアヤに僕は最高に素晴らしく生きたのだと伝えたいから、僕は頑張っているのだ。

この僕が生きている世界で、数年でも僕のそばにいて、一緒に生きていた彼らとの時間は宝物である。

僕は今出会っている人やこの先出会うであろう人、僕のもとに生まれてくる人、そして僕を見守ってくれていた人。
そのすべての人に同じことがいえる人間になるのだ。
この世界で出会えた事にありがとうと。

僕は無駄なく生きていたい。僕自身が幸せだと思える生き方で。

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