My History

置き土産【My History 9】

今から、17年前に僕は初めて会社員になった。

その会社は、今の会社の前に働いていた会社で、約16年間在籍した。

僕は子供の時から、会社員にはなりたくなかった。
サラリーマンにはなりたくなかったのだ。
小さい頃から夢見ていた職業につきたかったからだ。
だから、サラリーマンになる事は僕の夢が終わる事を意味していた。

そして社員になって16年。
僕は16年前に夢を捨てたのだ。

なりたくなかった社員に、なぜ16年も就いてたんだろうか。
きっと居心地が良かったのだろう。

過度の期待もなく平穏。自分のペースをはみ出す事なく過ごせるからだ。
それに、当時とても可愛がっていた猫を飼っていたからだ。

可もなく不可もなしな日々が必要だったのだ。僕と僕のペットのルナとの幸せのためには。
自由に使える時間と無理なく過ごせる金、この二つのみだったのだ。必要なのは。

飼い始めた年に社員になり、16年経ち亡くなった年に独立を決めた。
何か意味があるのだろうか。

僕は、長年働いた会社を退職した。
去年の3月の事である。
僕は新しい旅立ちをした。
ゼロからの出発である。

なりたくなかった社員を辞める事にしたら、夢が出来たのだ。
儲かる会社を創るという夢を。邪魔されない、やりたかった仕事の会社を。

16年僕は眠っていたんだと思う。
眠っていた僕を起こしたのは、大切な家族だったルナ。

ルナの置き土産だったのかもしれない。

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プログラマ【My History 8】

会社の専属宅配便なるトラフィックから始まり、10年ほど続く広告制作のDTPデザインを経て、Webデザインを始め、冷却で失敗したサーバー管理の後、
僕はプログラムの道に進む事となる。

インターネットが普及し、パソコンは一家に一台の時代が来て、インターネット回線も24時間繋げっぱなしで安価なADSL回線が誰もが契約出来た。

雑誌広告は今後下降を続けると僕は思っていた。
だから、無理をしてでも、Web制作やサーバー運用を進めたのだ。

だが、雑誌広告より低収入だったのでいつ会社が止めろと言われるか心配だった。

僕を入れた制作6人が食っていける収入がWeb制作では無かったのだ。

中止命令は、僕にとって死刑宣告だった。
一緒にされたくない、僕は頑張れるんだと葛藤があったのだ。

この時期Web制作に参入するには、遅すぎたのだ。
それは僕はひしひしと感じていた。
数ある会社に埋もれてしまうから。

だから、当時多少のプログラムがあったら外注に頼まなければならなかった。
それこそ、コストがかかる。金額が上がる原因なのだ。

僕らがプログラムを出来ればと思っていた。
それが始まり。

僕は7年前に、素人の状態から始めたWebプログラム。
学校に通わず独学で覚えたプログラム。
僕は必死だった。絶対にWebをする以前の状態に戻りたくなかったから。

いつの日からか僕はプログラマになり、Webシステム開発など行えるようになっていた。

この武器が僕になかったら、独立などできなかった。
あのままだったら、きっと僕は自信がなくて、誰一人僕に付いてくる人もいなかっただろう。

今でもまだまだ僕には知識が足りないし、日々インターネットは進化し付いて行くのに精一杯だ。

でも選んだのは僕自身。
会社を辞めたのも、独立したのも、プログラマになったのも。
何一つ僕は後悔などしていない。

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創世記【My History 7】

今の僕を形成しはじめた日々が始まったのは、2003年。

その年までは、僕は責任感などなかった。上手く会社の流れに乗っていればいいと思っていた。
自分以外がどうなろうと良かったのだ。僕に被害が被らなければ。
給料や昇級に関係する人物だけに媚びを売り、良い子を演出して過ごしてきた。

別にそれに物言う人がいても気にしてはいなかった。
流れに乗ってさえすれば安全で守られた世界にいるのだから。

それは大きな間違いだと気づいたのが、2003年。

会社の部署を僕が任され、僕の下に部下が入社し、部署として上司として会社に貢献できるよう頑張ろうと思い始めた。
僕の真似をしてもいいように、僕は精一杯に常識を重んじ、何を聞かれても答えられるように日々勉強し努力し続けた。

聞かれて答えられない。相談されて答えが出ない。仕事でも何でも必ず解決するように陰なりに努力した。
僕が分からなくて、僕が出来ないものなどあってはいけない。
そんな強迫観念に囚われていたが、僕は何度も克服し出来るように努力した。

初めての部下にどう接していいかのか分からない事も多かった。
逆に部下に教えられる事もあった。
今までは社内から出たことはなかったが、クライアントに直接打ち合わせで出向いたりするようにもなった。

僕が出来る範囲以上に、何かに打ち込む事がこの年から始まったのだ。

これが僕のターニングポイントだと思う。

この時がなければ、きっと今の僕はいないだろうし、今の会社もないだろう。
もしかしたら、今一緒に働いている仲間とも出会ってなかっただろうし、未来が変わっていただろう。

どんなドラマティックな展開でも、普通のありふれた展開でも構わないが、
運命や宿命なんてものをこの時僕は感じたのだった。

部下と意思疎通が上手く出来ずに、苦しい立場に立たされた事もあった。
僕の事を怨もうが何しようが守らなければならないもののために、部下を辞めさせた事も何度かあった。

守るべき思想が生まれたのはこの時だっただろう。

2003年から2004年が僕の創世記だ。

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ショップ経営【My History 6】

2004年7月 僕がホームページデザインを始める一年ほど前、会社で新しい事業を行う事になった。

台場に新しく出来るショッピングモールに、会社が出店するとの事だった。
ペットグッズショップ。

社内で誰も店を経営した経験はなく、ショップ経営のノウハウもない。展望もない素人店の出店。
その当時、ペットを飼っていたという事だけで僕を含む3名が、強制的に担当する事となった。

バイトの面接から、店舗のデザインと設置、店売する商品の用意、その他必要なものを3人で用意する事となった。

以前の会社は担当以外は手伝わない。そんな風潮だったので、通常の仕事をやりながらショップの仕事と、社内で倍以上働いていた。

楽しいのは最初だけだった。
あとは苦痛になっていた。
誰一人手伝ってはくれない。バイトが足りないと僕らが店番をする。
場所は台場で会社から遠かったが、週に一度は順番に店をチェックしに行かなくてはならなかった。

出店して店を閉めるまで約一年。
そんな事を続けていた。

赤字で終わった店舗。
ショッピングモールの経営自体問題だった。客を呼ぶイベントなど何も行わず全て店舗任せ。人任せ。
結果を残せなかったショップ経営。

僕はこの時期感じた。
結局、任された以上誰も助けてはくれない。
最後まで責任を持って行うのは己のみ。人に頼ってはダメだ。

僕は一度受けたものは最後までやり通す。例えそれが失敗だったとしても。

都会の行き交う人と同じ。
触らぬ神に祟りなし。
誰だって面倒には加わりたくない。
ましてやサラリーマン。
一つの仕事をしようが、百の仕事をしようが、給料は変わらない。
だったら楽な方がいいだろう。

そうほぼ全ては…、だからなんだね。

今の会社は真逆の考え方で起業した会社だ。
みんな一緒。
僕は見て見ぬ振りは、嫌いなんでね。

ショップ経営撤退後、僕の道はWebデザインへと続いてゆく。

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サーバー運用【My History 5】

僕が制作の部署を任されて一年半ほど経った頃、ホームページ制作だけでは、周りの幾万とある制作会社の中に埋もれて消えてしまうと感じていた。

だから、ホームページ制作以外で収入源となるものを探していたのだ。
ホームページ制作だけでは収入源とはなっていなかったからだ。

会社は利益の出ないホームページ制作より、既存の紙媒体の雑誌広告を優先するよう僕は経営者から言われていた。
だから、片手間にしかWeb制作は出来ず、紙媒体の仕事の合間にしか出来なかった。
そんな状態でいいものが出来るはずはない。誰一人として成長する事は出来ないままだ。

このままでは、趣味の域を越えられはしない。
個人のバイトの域を越えられはしない。一世一代のプロジェクトでも何でもなく、ただの会社の暇つぶしだったのだ。

周りは誰も僕には協力をしなかった。何をしようとしてるかも知らずに、協力すら出来なかったのだろう。

だから僕は模索していたのだ。
その頃、務めていた会社の周りでやっていなかったサーバー運用に目を向けた。

自社サーバーを社内に構築し、レンタルサーバー事業で収入源にしようと思い実行に移した。

サーバーを社内に配置し、今までの遅いネット環境を光回線と契約し高速回線にした。
社内のLANネットワークを繋ぎなおし、全員が社内で接続出来て、全員がインターネットに接続しメールを使えるようにした。

社内サーバーの設定はとても大変だった。ただ、Appleのサーバーだったので設定アシスタントがあり比較的楽だった。
だが、細かな設定はUNIXコマンドで設定しなくてはならなくて、専門知識ぐない僕には理解出来ずに細かな設定は行わなかった。

それに設備投資を極限に抑えるためにルーターまで僕が設定する事となった。IPアドレスが何なのかも知識がなかった僕は何度も間違え何度も初期化し直し、何日もかけて設定する有様だったのだ。

それでも無事に設定が終わり、社内でメールやインターネットが見れた時は安心した。

しばらくは調子が良かったが、細かい知識もなく対処方法も知らない結果、様々なトラブルが発生した。

会社のホームページやメールも自社サーバーに移した結果、トラブルがある度に周りは僕にやんわりと追求する。
紙媒体の仕事を止めながら対応する。
毎日最終電車になり、休日も出る事になった。

そして、決定的だったのがサーバーの熱だった。
24時間稼働しているから高温で機体が暑くなる。季節も夏になり、室温が急激に高くなり、誰も出勤しない休日には冷房がない分、社内は高温だった。

熱が原因でサーバーダウンが頻繁になり、一社にレンタルサーバー運用していたから、ダウンしたら再起動しに来なければならなかった。
仕事終わりに飲んでる最中や休日までもダウンし会社に戻っていたのだ。

サーバーの熱対策しなかったのが原因だったのだ。僕は熱さ対策が必要だというのを考えていなかったのだ。
サーバー本体だけではなく、室温も冷やさなければならなかった。
これが素人考えで起こす事業の結末。
大失敗である。

僕の時間も無駄に使い、周りから反感を買い、一年も保たずに失敗した。

安定したサーバー環境にするため、大手のレンタルサーバー会社と契約し、サーバーを移行した。

ただ、社内のルーターとしてもサーバーを使っていたから、まだ半年ほどはルーター機能だけだが、サーバーを使用していた。
案の定、熱で何度もダウンし、インターネットに接続出来ない時が何度もあったが。

辛い毎日だった、このサーバー運用の期間は。

僕はこの時に思った。
事前に対策さえしておけば、時間はかかるとも出来ない事ではないと。
かかる時間のストレスに耐えられるかは別なのだが。

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ホームページ制作【My History 4】

僕は、同じ会社でありながら、トラフィックの運び屋から始まり、版下制作、DTPデザインと職業が変わっていった。

僕は8年間DTPデザイン一本だったのだが、今から7年前に僕に部下が出来たのをきっかけに新しいジャンルの仕事を始める事となったのだ。

それが、ホームページ制作そしてWebデザインである。

当時としては既にインターネットが普及していて、始めるのは遅い部類だったが、今後の紙媒体の衰退を考え、インターネットを主とした部署にしたのだ。

ただ、もともと僕はホームページ制作をした事がなく、HTMLも書いた事などなかった。
素人同然で何が出来るのか?
見様見真似で始めたが、上手く行くはずなどない。

もともと携帯サイトを作っていた人を加えて何とかやっていったのだ。
この時点では僕一人の給料にも合わないくらいの仕事量だったのだ。

会社は儲けがなかなか出ないホームページ制作より、まだまだ業績がいい紙媒体でほぼ全ての社力を注いでいた。
だから誰一人として、僕のWebデザイン部は良く思われていなかった。

でも僕はWebデザインを始め、社内にサーバーを取り入れて運用したり、新しい事、この会社とは今まで無縁だった事をやり始めたのだ。

何度も失敗した。
理解しきれず進めたHTML。
サーバーの不調を始め、儲けもないのに日々僕の時間だけが取られて行った。
周りの非協力的な態度に、ストレスを溜めながらに。

でも、自分の中では終わっていた紙媒体主体の広告制作から、早く抜け出したかった。
広告制作といえども、クリエイティブなものではない。
毎日僕がデザインしてはいなく委託されたデータのサイズを変更し、プリントしてMOディスクに入れるだけのベルトコンベヤー式の退屈な仕事。

僕のスキルを高める事など皆無。
ただただ退屈に時間を過ごすだけ。
だから僕は出来ないと分かって。
相当苦労すると分かって、Webに手を出したのだ。

だから僕は間違ったと一度も思った事などない。

一年ほどWebデザインをするが、既にホームページ制作会社は幾万とあり、素人同然の僕は肩を並べる事は出来なかった。

このまま、また元の退屈に戻ってしまうのだろうか。
せっかく僕が初めて一任された部署と仕事だったのに。

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DTPデザイン【My History 3】

トラフィックから版下制作に移り、2年ほどたった頃、入稿形式はMacでillustratorで広告をデザインし、色指定もillustratorで行い、作ったファイルをMOディスクにコピーして印刷所へ送る、データ入稿が増えてきた。

まだ、印画紙を使った版下制作もあったが、だんだんと版下からMOディスクに移っていったのだ。
印画紙はモノクロの広告のみに今後なっていく事になる。

一人一台Macを使い、illustratorとphotoshop、QuarkXPressを使って広告を作っていく、DTPである。
カラープリンター、MOドライブ。
これでMac一台でデザインは完璧になるのだ。

僕は8年間、DTPデザインを職業としてやっていく事になったのだ。
それにMacのシステム面に興味が出てきて、システム内部や構造を勉強していくのだ。

illustratorとphotoshop、QuarkXPressだけでは飽き足らずに、3DソフトのShadeやPoser、マルチメディアソフトのDirectorやFLASH、ペイントソフトのPainter、そしてユーティリティにハマっていった。

診断や圧縮、システムやデスクトップのカスタマイズ、フォントやコントロールパネル、機能拡張などのユーティリティ。そのユーティリティ達を使い、更にMacのシステム深くを知っていったのだ。

この頃に僕はMacオタクとして生まれ変わったのだろう。

ここで僕自体をも、決定的なものにしたのだろう。
DTP、Mac、Adobe、システム、ユーティリティ。
この5つが現在の僕を形成する基盤となっているのだ。

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版下制作【My History 2】

僕が社員として働き出した最初の職業は、トラフィックだった。
そして、2ヶ月もたたないうちに、僕はトラフィックから異動し、版下を制作する仕事をする事になったのだ。

この頃の広告の制作方法は、今となってはパソコンで制作し、CDやメールで印刷所や出版社に入稿するが、当時のパソコンはCPUもとても遅く、ハードディスクが500MB、メモリーが128MB、記憶媒体はフロッピーディスクだった。
フラッシュメモリーもなく、メールも普及せず、アナログな時代だった。

広告の制作は、版下というものを作るのだ。
雑誌サイズのトンボが印刷された厚紙に、広告デザインがモノクロの印画紙に転写されたものを指定のサイズにカッターで切り、専用のノリで貼り付ける。
広告デザインの元となる図形は、AppleのPowerMac8100で、イラストレーター5を使い、モノクロで作り、モノクロプリンターで出力し、印画紙に転写して作っていたのだ。

今ではパソコンで図形の塗りと線に色を付けるのは簡単に出来るが、この時代は完成した台紙をコピーし、そこへ鉛筆で色指定をする。CMYKの%指定で。

毎回色指定するのも大変なので、使用する原稿によって、色指定した用紙を何枚もコピーしておくのだ。

写真を原稿内で使うなら、台紙に薄いシートを貼り、その上にコピーした写真のアタリを貼り付け指定すれのだ。

一部文字を変更するのは、写植用の文字をコピーして上手く原稿上に貼り付けていた。

現在のDTP制作はパソコンとカラープリンター、デザインソフトが必要だったが、以前は台紙、印画紙、カッター、色指定紙が必要だった。

この時期から2年ほど経つと、写植的な版下制作から、パソコンを使ったDTPへと変わり始める。

トラフィックの次の仕事は、版下制作だった。

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トラフィック【My History 1】

僕が初めて会社という組織に所属して働き出したスタートの職場はトラフィックだった。
トラフィックとは、単なる運び屋だ。

別にスキルが必要なわけではない。
ただ、決められた時間内に相手に届けるだけだ。

依頼されたものを相手に届けるトラフィック。
今は配送業のコストが安くなり、大手の会社以外では見かけなくなった。
昔は広告業界で小さな会社でもトラフィックがいたのだ。
会社の顔という人もいたが、それは単なるヤル気を出させるための言い方だったのだろう。

トラフィックの仕事はあまり長続きがすることはなく、人が頻繁に入れ替わる職業でもあったのだ。

相手から渡されるものがもあり、それを社に持ち帰る。
誰でもできる仕事。
僕でなくていい仕事。
だから、働き出した人は皆思うのだろう。しばらく働いて次を見つけようと。

ただ僕は、入社当初はトラフィックにやりがいを見つけたものだった。
その前はバイトを転々とし、水商売とかをやっていて、決心し昼の会社で働き出したからだ。

それが一ヶ月たつと同じ繰り返しなのだと気付いたのだが、僕は決心していたから、やる気は入社当初からと変わらずにあったのだ。

入社当初は、僕より年下の社員から指示を受けるので、初めて僕は会社組織には年齢順ではなく、勤続年数とスキルだとわかったのもこの時だったのだ。

このトラフィックという仕事をやっていて思ったんだ。
内容はとてもつまらなく、スキルもあがらないし、同じ事の繰り返しだ。
だが、この仕事が良いか悪いかなんて、自分で決める事なのだ。

仕事をやらされているうちは、どんな仕事でも辛いしつまらないし辞めたいだろう。何の得にもならない。
僕はやらされていた訳ではなく、仕事を喜んでやっていたのだ。自分の意思で。
だから、やりがいを見つけていたのだ。このトラフィックに。

僕は、「トラフィック」からスタートした。
別に威張るほどのものではないが、隠すようなものでもない。

仕事はやりたいと己が思う事で、全ては変わるのだ。
たとえ、どんな仕事であっても。

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